エノカマの旅の途中

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中岡慎太郎と高杉晋作~元治元年秋・再起

中岡慎太郎年表→こちら

禁門の変で負傷しながらも、中岡慎太郎は八月初頭には三田尻に帰還している。
そして長州に集まる浪士を中心とした忠勇隊は、隊長・真木和泉を天王山で失い
再編成を行って、慎太郎は幹部の一人に任命されている。

八月四日、野山獄から出され親類預かりとなっていた謹慎中の高杉晋作の下に
藩からの使者がきた。
前年の長州藩「攘夷決行」での外国船に対する砲撃に対する、四か国艦隊の報復攻撃が起こり
各砲台は壊滅的な被害を受けて「止戦講和」が必至となっていたのだ。
その講和の使者として高杉に白羽の矢が立ち「英国の密航留学」(→こちら)から急遽帰国した
井上聞多・伊藤俊輔を通弁に従え、講和の場に向かった。。。
家老の養子・宍戸刑馬を名乗った高杉は、外国船の海峡での安全通航の保障を認め
外国、特に英国との接近のきっかけを作った。
一方、賠償の件に関しては「幕府の攘夷実行命令」を盾に一切を被せた。
また下関の彦島割譲を求められた要求に関しては断固として断ったと伝わる。

元来「攘夷」を叫びつつも高杉は長崎・上海滞在にて、すでにその西洋文明に触れていて
その行為が無謀だと悟ったこの機会に、その生の海外体験を持った井上・伊藤の言葉も入れ
きっぱり「攘夷論」を捨て去っていた。



慎太郎も次の行動に移し、八月二十六日には三田尻を立ち
再度、四国~京大坂へと潜行している。
その頃の土佐の同志に宛てた書簡では

京師変動以来、長州も朝敵の名を豪り、逆臣益々跋扈、実に天下の大事去り申候。
尋いで長州馬関戦争も一時の権動申ながら、外敵を受る場合に付、暫時講和相成り残念至極に存じ奉り候。
されども節は屈し申さず、色々にいふべからず心痛の次第也と云ふ。
然し償金は出し申さず、幕府より一万二千金相渡し候事実正也と云ふ。
今又夷賊横浜において恐れ多くも勅許開港を請ひ居候由、実に寒心すべき事也。
又今冬来春の中摂海へ来寇するの説あり、是に於て天下大事の去就相定り申すべく
実に天下ムチャクチャに相成り申し候。
(以下、奈半利川二十三士処刑の報が伝わるも、在国同志に対しては)
何卒同志中此の上は脱走これなき様、精々御慎制願上奉り候。僕等今日迄生残り申候事
旦前後失策のみに相成り候事ども諸君に何の面目あらん。
痛哭嘆息、御燐察下さるべく候。

天下挽回再挙なきにあらず、然りながら今暫く時を見るべし。依て沸騰及び脱藩は甚だ無益なり。
涙をかかえて沈黙すべし。外に策なし。

「攘夷」も風前の灯となり、長州も朝敵とされ多くの同志を失い
また、奈半利川二十三士の報を聞き、この状況で生き残って何もできない自身を嘆き
同志にも、今の状況での「軽挙」を戒めている。
ただ嘆くだけでなく、慎太郎はあきらめずに各地を飛び回った。。。

九月二十六日には三田尻に帰還。
十一月になって、因幡(鳥取藩)へ時山直八とともに潜行するが
池田家は尊皇の風が元来強く、有力な同志・河田佐久馬(代々が京都留守居役で「禁門の変」では
長州と合流する動きを見せたが、機会を逸していた)らは閉居の身ながらも
健在であることを確認し安堵している。

こう言った中、大坂で不可解なことを耳にした。
薩摩が「残党狩りとした」長州兵の捕虜たちを斬りもせずに、
ほとぼりが冷めたこのころ、保護しながら長州にこっそり送り返しているというのだ。
また広島にいた「征長総督」尾張・徳川慶勝、参謀・西郷隆盛の下には「長州への寛大な処分」を求め
救済に動いた岩国吉川家と、その働きかけもあり同情的だった芸州浅野家。
そして藩主・黒田長溥の命を受けた福岡藩の筑前勤王党が動き出していた。
そんな中、福岡藩の有志の多くとも知り合いとなった慎太郎は
西郷との対面の機会を得る。。。

一方、藩論の振るわない(→こちら)長州を一旦飛び出した高杉も福岡に行くこととなる→続く
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by enokama | 2011-06-19 23:00 | 中岡慎太郎関連 | Comments(0)