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中岡慎太郎と高杉晋作~元治元年冬・島津久光要撃計画

中岡慎太郎年表→こちら

元治元年は、長州及び長州を頼った尊攘派にとっては最悪の年であり
「池田屋事件」引き続く「禁門の変」によって、多くの有為な人材が命を落とした。

この年、前年に脱藩し「七卿」の下に身をよせるようになった慎太郎は
新年早々「形勢挽回」を図る尊攘派の一人として、京都に上り
長州藩邸を根城として、行動を起こす。



(土佐の同志・山本頼蔵の「洛陽日誌」) 以下は「陸援隊始末記」平尾道雄 より

二月二六日 
雨天 了蓮寺に行、石川より状来る。長邸行、石川、川瀬対面、色々噺承る。機密記さず。
過日安岡金(安岡金馬)も脱走して浪花へ来り、良馬(坂本)、亀弥太(望月)、虎之助(千屋)
杯と崎陽へ行。

三月十一日
晴 古高(俊太郎)へ行たれ共留守、石川への一筆頼置、田権と大忠(大高忠兵衛)へ行。

四月十二日
晴 昨日三郎(島津久光)大隅守中将に成ると、正殿にて聞く。

四月十六日
当日石清、薩の肝付十郎、中村半二郎(半次郎)に逢て問答のよし、此両人随分正義の趣也。

四月十八日
雨 当日三郎京発足、先立警固前日七百立と云・・・

五月十三日
雨 古高にて慎太郎に対面。

慎太郎上京のあたりの人物の動きが、ありありとわかる資料で
土佐浪士でも坂本龍馬らのように、勝門下で海軍生として行動する者がいたり
慎太郎らは公武合体派の中心人物、島津久光の行動を注視しながらも
中沼塾での薩摩藩士との接近を図り(三月十一日古高宛て書簡→記事
中村半次郎ら長州に近い論者と昵懇の仲となっている。
古高・大高忠兵衛はのちに「池田屋事件」に関わり、彼らも京都において「形勢挽回」の
策略を図っていた。


(「奇兵隊日記」中岡慎太郎 上京報告)

此説一橋公大に奮発、攘夷論を主張し、薩越等之が爲屈究、種々術を尽すといえども何分
叡慮確乎として卿動きあらぜられず、追々諸侯も其論に服し、只今にては三郎、春嶽、
宇和島老賊のみ同論にて頗る不平の様子・・・
過る十五日以来日々大義論にて此度は一橋も決心、烈公の意を立て通す含の由にて水人鼻
天狗の如し。唯々有難き事は、叡慮確乎、少しも動かせられず、実に感泣の至に御座候。

こちらは先日の記事(→こちら)にもあった情報で
一橋(慶喜)の動きを歓迎しながらも、島津三郎こと久光には強い態度で臨もうとする。
そのころ長州藩邸には、旧知の久坂玄瑞と共に松陰門下で「双璧」と称された高杉晋作がいた。
高杉はすでに奇兵隊総督から政務役に転じていたが、長州では真木和泉や来島又兵衛らの主張する
武力を背景にして、幕兵と対決姿勢を見せる強硬手段を取ってでも
以前のような朝廷での主導権を取り戻そうとする「進発派」の動きが激しくなっていた。
高杉は藩主の命を受け、防府・宮市に陣取る来島を訪ね、思いとどまるよう説得するが
まったく取り合ってくれない。
そして「とにかく京都に詰める久坂らの情報を得てから、行動してほしい」と来島に告げ
富海から京都へ向け出航したのが1月28日。
しかし、この行動が藩から「脱藩行為」と誤解されたことを知った高杉は不満を漏らし
悶々とした日々を過ごしていた。

ここで知り合ったのが、藩邸に転がり込んでいた慎太郎で
議論が分かれ混迷する「進発論」よりも、効果的に形勢を変えるべく策を考えた。
それが公武合体派の首魁である「島津三郎(久光)暗殺計画」であった。
これで毛利家は名誉回復をし、七卿(このころは六卿になっていた)の帰洛も実現するだろう…

(高杉晋作「獄中手記」)

此時に土藩中岡慎太郎・宇都宮浪士太田民吉なる者、邸中に潜居せしなり、相共に京師の
事情を考察するに、兎に角島津三郎の首を斬らねば、姦賊の巣穴を払ひ尽し、雲霧開発の
日程これ有る間敷と申合せぬ。

しかし、その暗殺計画もさすがに警備が厳重で機会を得ることができなかった。
高杉はそんな中、急遽決まった久坂の帰藩に合わせて説得を受けて、京都を去った。
そして「亡命の罪に処せられたが、わが身に亡命とは思わず」と不服ながらも
野山獄入りを命じられる。結果的に、これが高杉を延命させることとなった・・・

一方の慎太郎らは引き続き久光を暗殺すべく行動するが、日記にあるように
四月十七日に久光は帰国し叶わなかった。
また浪士を結集させての決起も企てたりしたが、一旦長州に戻って再起を図ることとなる。
長州・三田尻に入ったのが5月27日、三条実美や奇兵隊士らに京都情勢を報告し
三田尻を再び出たのが6月7日。
その間、6月5日に京都では「池田屋事件」が起き、望月亀弥太、大高忠兵衛らは闘死する。
慎太郎もまた、命を長らえた格好となったのだ・・・
京都に入った慎太郎は再び長州藩邸に入り、長州の「進発論」が決定すると
天龍寺の国司・来島隊の陣営に入り「禁門の変」で戦う。

この年の前半、長州は散々たる結果となるが
生きて帰った慎太郎は高杉、そして薩摩・西郷と結び
大逆転のシナリオを描くのだ・・・
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Commented by ぽん助 at 2011-06-20 13:04 x
そうそうこの頃(中沼塾)は慎太郎は多くの志士と接触してますよね。そして薩長不仲のこの時期、唯一話しができた薩摩藩士は半次郎だったんだと思う。半次郎も長州贔屓だからお互い合い通ずるものがあったのかもしれない。ただ半次郎もこの時期は人脈拡大時期にあってお互い共に行動するとこまで至っていない。この後、慎太郎も半次郎もあまり接触した記録ってないよね?。半次郎が次に慎太郎に会うことになるのは慶応3年11月18日ごろ龍馬・慎太郎両人の墓前になってしまう。
もっと慎太郎と半次郎が接触した記録が見つかればいいのだが・・・。
Commented by enokama at 2011-06-22 01:55
>ぽん助さん
一番最初に接触した薩摩人が半次郎だったのは、なるほどと思うし
(長州に偏見ないし)接近しやすかった人物ですよね。
後は白川の陸援隊のころになってしまうのかな?

また日記に半次郎の名がないか確認してみます。
どっかで接点はあったんだろうけど。。。
ちなみに断トツで行動を共にしている薩摩人は
吉井幸輔です。
by enokama | 2011-06-17 23:44 | 中岡慎太郎関連 | Comments(2)