エノカマの旅の途中

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ある志士の暗殺と御陵衛士と中岡慎太郎

今回、霊山土曜トークのテーマは「幕末・維新の乙訓をゆく」で
向日市文化資料館の玉城玲子さんの講演でした。

去年は幕末イベントが多かったので、大山崎や高槻の各資料館と共同で展示もされてましたが
イメージ的にこのあたりは、戦国とか長岡京とかもっと遡った時代のイメージですよね。
その中で幕末の事も調べられたら、いろいろ出てきたってことで
今回は僕的に意外な収穫もありました。。。



向日神社神職で六人部家があり(九十代続いている!)
その江戸時代後期の当主・是香は、本居宣長の系譜を継ぐ平田篤胤に弟子入りした
高名な国学者でした。
従来から京都朝廷とのつながりがあって、朝廷に著書を献上したい思いをずっと持っていた
篤胤は是香のとりなしによって、願いが叶えることができたそうです。

国学の系譜なので「尊皇」の思いが強く
久留米水天宮宮司・真木和泉、実弟で「五卿」に献身的に尽くした大宰府天満宮神職・小野加賀に
代表されるような活動家も出ましたが、この六人部一族からも志士が現れました。
御所北側の寺町に十念寺があって「曲直瀬道三墓所」と言う石碑があるほど
曲直瀬家は由緒ある医家の名士(→こちら)でしたが、この養子となった道策は
加賀藩尊攘派との提携を図るなど、家産を放蕩するのも顧みず活動しました。
その兄弟も朝廷に関わりを持って、新政府軍に従軍するなどつながりを持ちました。

曲直瀬道策は写真も残っていて(検索をしたら一発で出てきます)
中岡慎太郎や陸援隊士、小笠原唯八などの例にあるような
典型的な大坂屋与兵衛スタジオのものです(敷物が特徴的)
奥さんの緑子も勤王家で知られていたそうで、顕彰がされてきました。。。


僕もこの人物は知っています。
なぜかと言うと中岡慎太郎の書簡に出てくるからで
学芸員さんも「慎太郎好き」っておっしゃってましたんで(嬉!)ご存知だったんですね。

然る処中村氏より真な瀬氏への書状の事深君より承り候処、真な瀬儀は先達て大坂に於て
壬生浪士のために殺害せられ候由。彼の書状の事如何成り候哉と懸念に堪えず・・・
(慶応3年6月12日 乾退助宛て中岡慎太郎書簡)

意外に新選組に殺されたって、はっきり書かれている書簡って見ないような気がします。
池田屋事件が有名ですけど、高名な志士がその他で斬られた例って聞かないですよね。
まあ存在自体が「抑止力」になっていたかもしれませんけど。
そして暗殺者は新選組でも、すでにこの年3月「御陵衛士」として分離した伊東甲子太郎一派
の一人で薩摩脱藩士・富山弥兵衛と言われています。
なぜ暗殺したかと言うと、曲直瀬道策は薩摩の小松帯刀らと図って海運商社の設立構想を持っていて
(小松は「亀山社中」に見られるように、カンパニー設立のパイオニア的存在で
各地で五代才助らとともに経済活動にも力を入れていた→関連記事
利潤によって活動資金とする予定でしたが、その中の一人の薩人に怨恨があって
巻き添えを食ったと言うことが言われています。
書簡にある「中村」は中村勇吉と言って天狗党ともつながった水戸浪士で、退助が江戸詰の時に
藩邸に抱えていた大勢の浪士(他に相楽総三らも)の一人でした。
そして、その間に取り交わされた書状が押収されていないか?と言う注意を伝えたものです。
土佐の馬廻の大身だった退助と、水戸の過激な尊攘浪士との関係が公然とばれてしまえば
藩内においても、対外的な他藩との関係でも大問題となること必至だったでしょう。
(平尾道雄「陸援隊始末記」)

慎太郎は伊東甲子太郎と2月に大宰府で会っていて、日記には7月と8月にも接触したようで
御陵衛士から陸援隊への隊士の移籍が実現しています(→こちら
この書簡には「壬生浪士」(まあ通称ですが)となっているので
「御陵衛士」(新選組との違い)の認識はなかったのかなとも思うんですが、どんなもんでしょうか?
それと慎太郎と甲子太郎が、どの時期からどれぐらい親密だったのか・・・
あきらかに「御陵衛士」とわかっていたとすると、書簡にあるような危惧はなかったでしょう。
あくまで本来の新選組が暗殺した可能性を示唆したもので、実は富山犯行説が違うって
可能性も十分あったかもしれない(信憑性はあまりないとする専門家もいるようです)
また、移籍した橋本皆助は例の宮川助五郎が捕まった
慶応2年9月の三条橋高札事件に出動していたメンバーでした。
その素姓がわかったら、陸援隊にも居ずらかったんじゃと思うんですが
まだまだ分からないことが多いし、調べて行ったら面白い事実も出てくるかもしれません!
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by enokama | 2011-06-07 23:30 | 中岡慎太郎関連 | Comments(0)