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エノカマの旅の途中

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所郁太郎に会いに行く~井上馨の思いと西方の記念碑

万延元年(1860)長州出身で適塾の塾頭も務めた大野藩洋学校・伊藤慎蔵の紹介で
適塾に入った郁太郎は、緒方洪庵先生の幕府奥医師就任に伴う江戸行きまでの約二年間学び
西方の実家に帰って、父・伊織の実子・たつと正式に結婚し家業の医家の後継者として
平時であれば、地域にも期待される人物に行く行くはなるはずでした。



文久二年(1862)秋に出奔した郁太郎には、父の弟の孫にあたる長屋丁輔がついていました。
長州で亡くなった郁太郎の刀・肖像写真(青山松任著「所郁太郎」表紙・京都にて撮影)・遺髪
(赤坂の墓所に埋められた)は彼が持ち帰ったもので、現在その遺品の多くが京都・霊山歴史館に永久寄託され、時折展示されています。

短い結婚生活の中で郁太郎は子宝に恵まれ、長女が誕生しています。
ただ出奔後の翌三年二月のことで、郁太郎は生涯、我が子の顔を見ることはありませんでした。
一方このころ西方周辺は、幕領で大垣藩の預かり地となっていました。
大垣藩戸田家は要地を治める有力譜代大名であって、ほどなく郁太郎は反逆者として追及の手が、残された家族に及びます。
親族にも探索が命じられ、京都に赴きますが彼の意思を尊重して「行方分らず」と報告し
その際に郁太郎は「できれば妻子を京都に呼んで、一緒に暮らしたい」との思いを伝えたと言います。
その探索費用の自己負担、やがて所家は戸籍までも外され経済的に困窮し西方の地を追われることとなり
遺髪墓もその出生地・赤坂に作られました。

妻たつはのちに再婚。
娘・す免は地元で結婚後、群馬県に移住し養蚕農家として生活します。
この西濃地方でも養蚕が行われていて、さらに本場の上州でやってみたいとの思いではなかった
のではということです。
ちなみに西方を追われた所家の跡も桑畑になっていました。
す免は三児を授かるも、成人したのは娘・すゑだけでしたが、彼女は所姓を継ぐために
結婚しても、入籍することはありませんでした(子供なし)
す免は夫の死後、再婚して一児を産み、その子孫が所家として現在に至っています。。。
困窮した時期があっても、残された家族にとって郁太郎は誇りでした。


郁太郎の顕彰は親しかった井上馨(聞多)・品川弥次郎らによってされていて
明治二十四年六月、地元の新聞に一週間にわたって載せられた、その遺族の安否についての捜索の広告によって
地元でも改めて知られるようになりました。
井上は赤坂の生家から郁太郎の甥・実吉を引き取って、援助を行い彼は医者となり
所家の名跡を継がせています。

この経緯もあって、出生地・赤坂よりも養家の西方・所家は忘れられたようになっていましたが
昭和になって地元で記念碑建立の機運が高まり
井上馨の孫・三郎の多大な援助もあって昭和十三年、生家跡に建てられました。
所郁太郎に会いに行く~井上馨の思いと西方の記念碑_f0010195_645224.jpg

所郁太郎に会いに行く~井上馨の思いと西方の記念碑_f0010195_645179.jpg

かなりでかいです!
この形は変わっていますが「冠」をイメージされたそうです。。。
土台は地元の谷汲石、碑は根府川石で作られ、建立当時の毛利公・元昭の書によります!

今回は講師の加藤さん、赤坂在住の霊山顕彰会岐阜支部の河合さんに貴重な資料もいただき、大変お世話になりました。
改めて御礼申し上げます!

所郁太郎関連記事(時代順)
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by enokama | 2011-05-13 23:12 | 緒方洪庵と適塾 | Comments(0)