久里浜~黒船・ペリー上陸の地 その2
司令官は日本政府最高位の者としか会わないとの米艦の強硬な態度で
こちらも副官のコンティーが対応した。
「我が国の租法では外国人との交渉は、長崎以外ではできないのでかの地へ回航されたい」
しかし艦隊側では「あくまで最高位の高官に会った上で、江戸にて国書を渡したい」と突っぱね
面会はできぬと見ると、江戸湾に力づくで侵入するとの態度を取った。
そうなると戦闘になってしまう可能性もあり、三郎助は「重大事項ゆえ正奉行と相談の上」と
一旦は退いた。しかし外国人が日本人を一方的に追い払ったとの形にはならずに済んだ。
江戸には早飛脚にて、江戸の老中首座・阿部正弘に伝わり緊急動議となった。
そして今度も偽の正奉行役として、三郎助の義弟でもある与力・香山栄左衛門が改めて
サスケハナ号に乗り込んだ。
面会は少し上役になったものの、相変わらず総司令官のペリーは出てこずに交渉したが
主張は平行線のままで「江戸での評議を待ってから、改めてこの地で交渉したい」と
4日間と日を区切ってなんとかまとめたが、返答が遅れたとしたら江戸に侵入すると相変わらず
米艦側は強い態度であり、さらに小舟を下してこのあたりの測量を始める始末であった。
この返書を待つ間「黒船来航」の噂は瞬く間に伝わり、奥深い浦賀湾周辺の山々には
黒船見物の群集や、状況探索に来た諸藩士らで満ち溢れた。
一方、威圧的態度で勝手気ままな測量などの行動に出るペリー艦隊に対し、警備の川越藩は
爆発寸前となるが、衝突を避けたい浦賀奉行・戸田氏栄が自ら説得し、なんとか抑えていた。
しかし彼らは警備をボイコットしてしまい、代わりにきたのが戸田の本家・大垣藩であり
このペリー来航に衝撃を覚えた大垣藩は、この後に名宰相・小原鉄心の下で譜代藩屈指の
洋式軍隊を整備することとなる。
そして阿部の決断は、現状の防衛力で打ち払いや退去を求めるのは、とてもじゃないが無理である。
とりあえず今回は国書を受け取り、返答はその後改めて行うとの方針を決めた。
浦賀奉行所では国書受け取りの場所は町衆の目もある浦賀を避けて、一つ山を越えた南側の久里浜とした。
緩い弧を描いた湾で小平野となっている「警備がしやすい」との理由で、アメリカ側を納得させた。
嘉永6年(1853)6月9日。国書の受け渡しは偽奉行の香山、幕府高官と称した戸田氏栄と
もう一人の浦賀奉行・井戸弘道が臨んだ。
「日本政府最高位の高官」にとしていたアメリカ側にとって、将軍までは行かなくとも阿部あたりが
出ていく場面だったかもしれないが、このあたりは日本も一発かましてやった訳でもある!
そして、ペリーから大統領親書が渡された。
このあとの交歓会で三郎助は黒船の機関を見ることができ、機関士らに質問をしまくって
彼らを閉口させたと言う。。。
この後ペリー艦隊は再度、羽田沖まで入りこんで威圧してから、浦賀を離れます。
ペリー上陸記念碑
明治34年(1901)日米協会により建立。
碑文「北米合衆国水師提督伯理上陸紀念碑」は伊藤博文による。
日米開戦後の昭和20年に一旦、撤去後に復元。
この近くには「ペリー記念館」(9:00~16:00 月曜定休・入場無料)があって
展示が見られます。