エノカマの旅の途中

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「北方領土」と下田での日露和親条約~そして、船を作った

摂海の安治川口沖に入ったディアナ号の目的は京都にも近く朝廷への圧力の意味もあっただろう。
この事態に幕府は長崎での交渉に続いて全権の筒井・川路を派遣することにし、交渉場所も伊豆下田としロシア側も従い10月15日に来航する。

しかしこれまでの摂海侵入の行動以外のプチャーチンの一連の開国を求める交渉に関しては、 ペリーに比べて「威嚇より対話」として穏便な態度で臨み、対応した全権二人も大変気に入り
筒井に対しては書記官の記録に「この老人は最初から私たちを魅了した。長い生涯と生活の苦労で鍛えられた柔和な風貌は、自分たちの祖父にしたいほどだった」と残されている。
この時は53歳であった川路に対しては「45歳ぐらいの大きな鳶色の眼を持った、聡明闊達な顔つきの人物」と残している。

しかし下田での交渉の最中、ディアナ号に災難が襲い掛かる。
11月4日にいわゆる安政の大地震が起こり、下田も被害のなかった民家がほとんどなかったと言うほどの大津波の被害を受けた。
ディアナ号も座礁し、舵と船底を大きく損傷してしまった。
この災害の中でもロシア兵たちは被災民の救護を積極的に行い、日本側に好印象を与えている。
中断はあったが「日露和親条約」は下田にて12月21日になって結ばれている。




ディアナ号の修理は近辺の地で行われなくてはならず
川路は韮山代官の江川英龍(担庵)とも協議の上で港湾施設も破壊された下田から、敵対するフランスやイギリスの艦船にも見つかりにくい伊豆西海岸の戸田(へだ)で行うことを決める。
英龍はその取締役を命じられ、万事を取り仕切ることとなる。

11月26日、応急処置が済み下田から戸田へ向け出航したディアナ号は、俄かに強まった風浪にあって戸田に入れず富士川河口付近の宮島沖まで流されて、とうとう座礁してしまう。
浸水の激しくなった船内でプチャーチンは全員に退艦を命じる。
沿岸の漁民も決死の救助作業を行い、一人の遭難者もなく収容することができ、このあと乗組員たちは陸路で戸田へ向かった。
ディアナ号はこのあと再度、戸田へ向けて曳航を試みるが再度の強風に阻まれ、とうとう沈没してしまう。

そこで川路は一計を案じ、船を失い大勢の乗組員の帰国が困難となった彼らのために日本人の手で戸田で洋式船を新造し、提供することとする。
国内でも阿部正弘の判断で「大船建造の禁」がすでに解除されていて、浦賀では本格的な洋式船の建造(→こちら)の実績があった。
ディアナ号から持ち出されたスクーナー型帆船の図面が残され、技術の習得(作ってあげるんだから、もちろん教えてくれる)が期待できる絶好の機会でもあった。
総指揮は韮山代官・江川英龍で地元の豪商や廻船問屋の有力者が「造船御用達」になり、ロシアの設計・技術指導を仰いで、地元・戸田の船大工が実際の建造にあたった。
突貫工事で100トンの帆船を約3か月の工期で完成、大きさはディアナ号には到底及ばず10分の1ほどの約50人乗りだったが
(この船で先発隊が帰国し、代替船を手配し残りの船員を迎えに来る計画)
この船にロシアからは感謝を込め「ヘダ号」と名づけられ、翌年3月出航し、プチャーチンは帰国の途についた。
この「ヘダ号」には浦賀の造船技術者らも来て図面取りをし、雛形として同型の船をさらに国内で建造した。

このころのペリーにしろ、プチャーチンにしろ、まだまだ文明的にも未開だと思っていた日本人がこれほど好奇心旺盛で進取性に富み、異国人に対しても一歩もたじろぐことのない姿勢に感銘し、ゆくゆくは先進国になるだろと予見した話がよく伝えられます。
その姿勢に外国人たちも惜しみなく技術を伝え、日本にも造船術が根付くこととなります。
維新後にプチャーチンの遺言で戸田村に寄付が送られたと言うし、この出来事を展示する資料館ができる時には当時のソ連から寄付もありました。
このあたりの友好の事実もあったんだから、今の交渉のツカミとしての話もできると思うんですけど今の外交官に、この時の状況を知ってる人が果たしているのかどうか?

このころの外交条約は、ただ相手に屈して締結した事ではなく、日本人は自分たちも負けるものかと、ただでは決して帰しませんでした。
「江戸時代の鎖国」そして「開国」と言いますが、潜在的に島国の国民にはどんどん外洋にも
乗り出す素地と、過去の鉄砲などに見られた天性の器用な技術力は健在だったんです。
このあたり、当時の外交は今と比べものにならないぐらい、素晴らしい物を持っていたのです!

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by enokama | 2011-02-08 23:51 | 幕府東国諸藩 | Comments(0)