エノカマの旅の途中

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「北方領土」と下田での日露和親条約~開国の年・1854年

今日7日は(新暦ですね)幕末に、日露和親条約が伊豆・下田で結ばれた日で
この中に「日露境界は択捉島とウルップ島の間に定める」との条項があることで
この日を持って、北方四島は日本固有の領土としての運動を盛り上げようと
「北方領土の日」として制定されています。
僕個人としては、この幕末の条約での境界線での問題を踏まえての
明治八年の「樺太千島交換条約」(→こちら)が平和裏に締結された事が
本来主張すべき領土であるし、理屈も絶対通ると思うのですが、どんなもんでしょうか?

それにしても、前は当日の政府広報もあったりしたのに
くぐってみても全然、この関連記事なんかもほとんど出てきませんよね。
かつて住んでいた島民の方の思いは運動にも現れていますが、もう高齢の方が多いですよね。
5年後、10年後と知る人が段々と減っていって、フェイドアウトしてくるかもしれない・・・
このあたりは周辺諸国との領土問題(本来、きっちりと国が主張していれば問題とはならない)
が山積するような現状と、全然その危機意識を持たせないような教育や一般的な現状周知が
日本は中韓露に対して劣っていることなんでしょうけど
例えば街頭なんかで、このテーマでインタビューされてもそれらの国だったら、しっかり主張されるだろうけど
日本人なんて、全然答えられないんだろうな。
また、この国の報道はもう腐りきってるから、今更どうしょうもないだろうけど
「理不尽な主張しますね。横暴ですね…」まあ、なんでも綺麗ごとでないとダメらしい。
それが尖閣にしてもちゃんとした事実を伝えていないこと。




1854年(嘉永7年・安政元年)はいわゆる「開国の年」でもあった。
3月には、あのペリーの再来航があって「日米和親条約」が神奈川で結ばれ
下田・箱館の開港と外国人遊歩区域の設定、米船に対する薪・水・食糧の提供、漂流民の保護など
初めて日本が結んだ国際条約として、文字通り「開国」国際社会に踏み入れて行ったのである。
引き続き、8月には英国と、そして安政元年12月21日(旧暦)に、この「日露和親条約」が結ばれる。
(翌年にはオランダとも結ばれる)
1858年(安政5年)には、ハリスとの間に「日米修好通商条約」が結ばれ、本格的に通商が始まるが
この時の通貨交換レート設定と治外法権の条項などが、いわゆる「不平等条約」となり
金の海外流出や物価の高騰で国内の混乱も招き、攘夷志士の跋扈にもつながって行くわけです。。。

さてこの「日露和親条約」一般的にペリーが目立ってしまって隠れがちだが、ロシアもかなり早い時代から通商を求めて日本に接近しており(元々、松平定信の時代から外交問題と言えばロシアだった)
プチャーチンの艦隊は嘉永6年7月に初めて長崎に入り、12月には幕府全権の筒井正憲・川路聖謨との具体的な交渉に入っている。
一旦、筒井・川路には好印象を受けながらも交渉は打ち切り、このころクリミア戦争勃発によりロシアがイギリス・アメリカと敵対関係になったことを知って、艦隊は情報収集もあってマニラ・上海へと赴く。
マニラにてプチャーチンは回航してあったディアナ号に乗り換えた。3本マスト2000トン・52門の大砲・約500名の乗組員が乗るロシアの最新鋭の戦艦であった。
この頃アメリカとの間に「日米和親条約」が結ばれていたことを知り、日本での交渉継続を求めて再度長崎に入るがまったく幕府からの進展はなく、次に向かったのはアメリカとの間で開港されていた箱館であった。
しかし前回の交渉の際に示したロシアからの条約案に対しての返答がなく、アメリカよりも後れを取った形となって一転、ロシアは強硬手段に訴えようとし、箱館奉行に通知の上で大坂へ向かうこととなる。
ただ箱館からのこの通知が遅れたために上方では大きな騒ぎとなるのだ。

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by enokama | 2011-02-07 23:08 | 幕府東国諸藩 | Comments(0)