天王山~十七烈士と宝積寺
最初はこの地域らしい竹藪(江戸初期は松の山だったそう)少し急です!
でも足が慣れたころには緩やかになりますんで、がんばってください。。。
25分ほどで見晴らしのいい旗立松。
山崎合戦の地でもあります(山頂には明智の城があった)
三川合流は年代によって、姿を変えて行ってます!
男山(石清水八幡宮)方面
樟葉(淀川対岸)方面
このあたりに「樟葉台場」があり、今も遺構が多く残っています!
こちらはちょうど、大坂湾にロシア船が侵入してから危機感を持って
今後、異国に京に攻め入られないようにと、警備の名目で会津藩が作った砲台ですが
実質、海洋を渡ってきた異国船が川を上ることなど(浅いし)ないので
併設された関所としての役割が主でありました(京都守護としてのアピールと、長州の牽制が目的)
今後、貴重な遺構として整備が進められるとの話でした。
そして10分足らずで「十七烈士の墓」
この地に立てこもった真木らに対し、山麓の宝積寺(後述)の僧侶の案内で
会津兵の掃討部隊が入りますが、十七士はことごとくこの地で切腹して果てた後でした・・・
真木の墓
十七烈士の一人・宮部春蔵(肥後・熊本藩)は、あの宮部鼎蔵の実弟です。
また長州兵がこの地で割腹していないのは、真木が再起を願い
できるだけ落ちのびさせたからだそうです!
こちらに残されている碑文は「大宰府の五卿」の三条西季知(すえとも)と、烈士の一人で
尊攘活動家だった池尻茂四郎(久留米藩士)の父・茂左衛門の手によります。
山頂まではあと15分ほど(城跡)ですが、今回はここで引き返します。。。
宝積寺
秀吉の時代に整備された伽藍で、この幕末にも付近の寺院の中では数少ない
焼け残った寺で桃山様式を今に伝えています・・・
前田利家の立会いで、秀吉と柴田勝家の会見も行われたことがあります。
禁門の変の際、前述のように掃討部隊の案内をした経緯で、焼かれなかったのかもとのことでした。
三重塔と本堂は秀吉時代のもの
当初は三重塔の下に十七烈士の墓があった。
とてもよかったです!
学芸員さんもベテランで、とても詳しく、いい話を聞くことができました。。。
なかなか、今は「仕分け」の時代で(苦笑)資料館にもなかなか予算がでないと
言われてましたが、歴史の宝庫である山崎での研究・顕彰の拠点としての役割は重要だと
思いますので、ぜひ皆さんも訪れて触れていただきたいです!