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エノカマの旅の途中

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天王山~幕末の大山崎と禁門の変

11月21日。大山崎町歴史資料館の企画で、天王山に登って来ました。

戦国時代は、豊臣秀吉と明智光秀の「山崎合戦」の地。
そして幕末には「禁門の変」で、長州側に付いた真木和泉らの終焉の地であり
三河川が合流し淀川となり、京と大坂の境にあるこの地は、歴史的にも重要な場所であります!
今回は「幕末維新期の大山崎」がテーマで、主に禁門の変時を中心とした散策をしてきました。。。




阪急大山崎で12時に集合。
しばらく歩いた所に「大山崎歴史資料館」があります。
元治元年(1864)6月末に、この山崎の地で長州藩の久坂・真木らの一隊が陣を置きます。
7月19日に「禁門の変」と呼ばれる御所での激戦となって、久坂は堺町御門で戦死。
山崎に戻った真木ら、十七士は天王山中腹で割腹して果てます・・・

資料はその時の山崎の被災状況
(長州残党狩りとして、21日に陣所となった寺院の焼き討ちがあった寺院側の記録
ただし前日のうちに多くの長州兵は神戸へ逃れ、海路逃げ落ちていた後だった)
や京都市内での消失家屋を書いた地図
(焼けた所が赤く表示。御所から南は今の京都駅付近までと東は鴨川のあたりまで)
山崎の宿場に立てられた駒札(急遽で戸板の一部が使われた)で
会津藩の名でこの地を平定したとの布告。
また、古来からの寺院の委任状類の多くが焼けてしまったので、古老に聞いた上での
再発行の様子を書いた記録など。
また、この焼き討ちには新撰組が加わっていたり
のちの鳥羽伏見の戦いで、山崎は逆に旧幕府側の陣所となったわけですが
この地で、日和見となった藤堂藩を新政府軍側に引き入れる説得も行われたそうです!


そして展示の説明を受けた後、ウォークを開始します。

東へ10分ほど歩いて安養院(阪急とJRの線路が南北入れ替わった東あたり)
少し高台でこちらにも長州の砲台が置かれた。
天王山~幕末の大山崎と禁門の変_f0010195_22592247.jpg

そして長州(小荷駄隊某)残兵がこの地で切腹して果て、立てられた墓標があります(墓標には甲子の文字がある)
こちらは最近まで所在が知られずに、地元の研究家の方によって発掘されたそうです。
天王山~幕末の大山崎と禁門の変_f0010195_2325930.jpg
後日、再訪しました(2018年3月)がその時におられた住職さんに話を聞くことができました。
墓標は幕末時にあったわけでなく(だから埋葬もされてない)この話を聞いた伊藤博文の娘婿である末松謙澄によって、明治になってしばらく経ってから建てられたそう。
以前に京都の大学の方が碑文の拓本を取られていったそうです。
この碑はずっと大事にしていきたいとおっしゃっていました。

観音寺(山崎聖天)古くからの「商売の神様」
こちらにも長州の陣が置かれて、すでに長州兵が立ち去ったにもかかわらず
焼き討ちに合い、境内の大半を焼かれてしまいました。
焼け残った小屋には長州藩の兵糧が残されて、山崎町民の救援米として供出されました。
陣にするにはもってこいの石垣ですね。
天王山~幕末の大山崎と禁門の変_f0010195_238717.jpg

この池に本尊をあわてて投げ入れて守ったそう
天王山~幕末の大山崎と禁門の変_f0010195_2392577.jpg


そして、いよいよ登山開始です!
by enokama | 2010-12-01 23:10 | 歴史連載 | Comments(0)