「龍馬伝」第三十三回~ほんとは長次郎の大大仕事
正直最近はじっくり見るほど話も面白くないし、生だったらなんとか見てられるだろうけど
録ってたら、もうどうでもいいシーンはどんどん飛ばして行きます。。。(苦笑)
それでも見るのは、長州勢と近藤長次郎と来週出てきそうな三吉慎蔵がどんなんかな?ってとこぐらい。
オープニングは長州二傑のシーン。
もうこっちメーンの方が面白いのとちゃうの・・・
「薩摩名義で武器を買えます」との便りに、コゴローが聞多に「金用意しろ」(笑)
ちゃんと役割わかってるやん。。。
うーん、やっぱり龍馬は長崎に帰って陣頭指揮させな気が済まない・・・
相変わらずの脚本ですね(萎えるよ)
グラバーに対しての今回のドラマの龍馬は、相変わらずの土下座・肩たたき「日本」「日本人」の連発に
机叩きとソファーふんぞり座り・・・
武士じゃないんですかね?失礼やと思うし、このへんがうんざりなんや・・・
最後、金で転ぶのはそりゃ商売ですからね!
続きの交渉、今回はいつものように龍馬でみ~んなまとめるのではなく、珍しく他人に振ります。
まあ来週(?)の伏線のためだけでしょうが。
グラバー・長次郎らと聞多・俊輔のシーンは、キャスト発表からずっと楽しみだったからよかったです。
聞多は英語ほんまにバリバリやったんかな?(笑)
でも実際彼らに影響されて、長次郎が洋行に行きたかったのはあったでしょうね!
それにしても、どれだけ薩摩色を排除したいんだろう。。。
あとはまともに見られませんでした・・・視聴率13とか。。。
来週は三吉慎蔵をしっかり出してよね。
ノベライズで三吉君、ちょっと納得できない表現あったんだけど
おそらく指摘されて直ってる事を期待します!
下の隠し記事で長次郎をまとめてみました!
見るのは来週の放送後の方がいいかと思います・・・(笑)
関連記事(長崎その1・その2/下関その1・その2)
慶応元年7月、長州藩士の井上聞多・伊藤俊輔は長崎に向かう。
薩摩名義を持って、長州に武器・汽船購入と海外留学生(薩摩の一団として)の受け入れ依頼が目的だ。
西郷・桂らの周旋を持って、その一切の指示を受けた坂本龍馬配下の(亀山)社中メンバー・近藤長次郎
(変名・上杉栄次郎)は彼らを迎え入れ、折りから長崎出張中だった薩摩の重臣・小松帯刀に紹介する。
小松は神戸海軍操練所閉鎖後の進路に窮した龍馬らの身柄を一旦薩摩に引き取り
約半年後には、長崎を拠点とした社中の誕生にも深くかかわり
その彼らの手当も薩摩藩から出させていたほどの密接な間柄だった。
そして帰国の途につく小松に付いていく格好で、長次郎は「直接出向いて薩摩の感情を和らげてはどうか」
と井上を誘い、薩摩行きに踏み切る。
薩摩で長次郎は、井上とともに交渉に入るが事が事だけに容易には進まない。
その間、長崎に残った伊藤は社中メンバー・高松太郎の斡旋で、グラバーを通じての小銃購入に成功。
一旦、長崎に戻った長次郎らは購入した武器を積み込み長州に入り
毛利公・敬親にも拝謁し、さらなる汽船購入を依頼される。
再度、長次郎は薩摩に入り、島津藩父・久光にも拝謁。
毛利公からの書状を渡すとともに通商・攘夷論等、幅広い思い切った意見を出し、その上書も残されている。
そして汽船の購入についても、具体的な動きとなって行く・・・
薩摩名義で購入し社中の仲立によって、やがて長州に引き渡されることとなる「ユニオン号」は
イギリス製300トンの木造蒸気船。
「ユニオン号」は当面○に十の薩摩の旗章を付け、乗組員は菅野覚兵衛・石田英吉ら社中のメンバーで
平時は社中の通商航海に従事するが、有事の際は直ちに薩長両藩に組して武装し軍艦として運用する。
基本、資金は長州から出されその指示に従うが、運用に空きができた時は社中での運用(商売も)や
薩摩の用向きにも使うことができる。
薩摩船名での「桜島丸条約」(慶応元年10月)と言われるもので、長次郎と井上聞多の間で交わされた
この条約は薩摩・長州・社中それぞれの共有とするように見てとれるものであった。
ここに変則ながらも念願だった社中で運用できる船の獲得となった。
社中メンバーの顔も立てられるだろう・・・
しかし担当の桂小五郎と、新たに作られた「長州海軍局」と言う部署に行き違いが発生してしまった。
長州名船名は「乙丑丸」とされ、艦長は中島四郎と言う人物が勤めることがすでに決定されており
長州の資金で買われるれることもあり、完全な所有権を求めてきたのだ。
そこで坂本龍馬が条約の改正・調停に乗り出し、運用権を長州最優先にすることで手打ちとなった(12月)
しかし、この改正の際のごたごたで、各方面に長次郎に対する風当たりが強くなってきた。
不利になる薩摩や社中(のちに運用権も完全になくすことにつながる)からも問い質され
この大事な時に面目がつぶされかねない・・・
そして、とうとう長次郎は自ら命を絶つことで責任を取ったのだ。
薩長の両公に拝謁するなど、両藩の信頼も得て結びつけた一方の薩長融和最大の功績者だったが
あまりにも大きすぎる仕事・・・専行気味に突っ走ってしまったのもメンバーからの印象を悪くしたし
その狭間で無理も生じたのだろうか。。。
(有名な秘密裏の留学計画の件は、僕は後でついてきた話だと思う)
その後運用権を正式に長州に渡し、再び船を無くすこととなった社中は翌慶応2年3月、薩摩の援助を得て
帆船・ワイルウェフを購入する。
そして試験航行を終え、5月いよいよ下関からの糧米を長崎経由で鹿児島に送る目的で本格航海に出るが
五島列島沖にて遭難してしまう不運に見舞われる。
ようやく手に入れた自由に使える船を失い、池内蔵太ら12名の優秀な乗組員が死んでしまった・・・
一方6月、乙丑丸は条約にもあった軍艦としての運用として、あの高杉晋作の活躍でも知られた
四境戦争の開門海峡での戦いに加わる。
ここで見られた社中乗組員の操船技術の高さは語り草になったと言う。
しかし、この戦いを最後に乙丑丸は彼らの手を離れた。
この後も船を求め、それにまつわる悲運も社中には続いていく・・・