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エノカマの旅の途中

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semスキン用のアイコン0110分で説明する中岡慎太郎の考えと思想の変化semスキン用のアイコン02

  

2010年 07月 31日

いよいよ8月1日「龍馬伝」中岡慎太郎登場です。

おそらくアクセスがたくさん来ると思うんで、慎太郎関連の記事まとめてみました!
(以前の記事の編集版です)
まあ、この脚本には期待できないし
岩倉具視あたりも、龍馬が武力討幕に固辞する考えを改めさせようとした
って感じにするんでしょうね・・・

(関連記事・生誕から武市半平太・間崎哲馬に入門するあたりまで その1その2その3
最初は武市半平太の弟子だし、こりこりの尊攘派。
藩命で長州・久坂玄瑞と同道して松代の佐久間象山に会いに行った時も、松蔭門下で海外情勢も
知っていた久坂は、その開明論にそれなりに納得したけれども、慎太郎はまったく理解を示さなかった。
しかし慎太郎の代名詞のように使われることの多い「戦の一字あるのみ」の理念は、慎太郎の論文にも
あるように、久坂ら長州の主だった考えに追従したものである(慎太郎も吉田松陰を崇拝していた)

脱藩してからの慎太郎は長州へ。そして京から尊攘派長州系公卿(三条実美ら)らが三田尻に
落ちてからは、そちらを拠点にしていた
(防府レポ その1・その2その3
そして「禁門の変」後(本人は負傷するも帰還する)幕府の長州処理を任された薩摩の西郷隆盛が
「長州救済」を考えていることを聞くと、本人に対面しその本心をただし賛同し、率先して「薩賊会奸」と
叫ぶ諸隊を説得し、西郷の信頼する同志・吉井幸輔らと共に薩摩との提携を説いた。
この説得が実は一番大変なことで、この「薩長融和」の空気ができ始めた時に下関に現れたのが坂本龍馬。
あとは言い尽くされた話となるが、世間的には龍馬が「薩長同盟」をまとめたようになっている。
(関連記事 その1その2その3その4 他、福岡藩カテゴリ記事もごらんください)
(大宰府レポ その1その2

そのころ、英国に密航して帰国していた井上聞多・伊藤俊輔や、上海に渡航した高杉晋作は
その体験や商人グラバーの意見を基に「下関開港」を計画するが元来、攘夷の旗印でまとまっていた
諸隊には到底理解できない。
3名は藩外に逃亡するが、慎太郎はその間沸騰する各諸隊を、説得・抑えつつも一定の理解も示し
「開国論」を持つようになった。

そして「薩長同盟」が成立し、第二次征長が長州の勝利に終わるとあらたな枠組み「朝幕一致」
(二重権力の解消)が課題となり、そのころの慎太郎の論文に「徳川は大政を返還し、一諸侯となるべし。
これは徳川自身も救うことなり」と出てきて、最近やっと周知されつつあるが
「慎太郎は龍馬よりも早く大政奉還を唱えていた」

それに先立ち、慎太郎は西郷と図って「四賢候会議」を企画する(これは龍馬はいっさいタッチしていないこと)
議題は「長州復権」と「神戸開港」について。
有力公卿と徳川慶喜、薩土越宇の雄藩・四賢候の参加となり、薩摩は「長州復権」を先に実施し
同じテーブルに長州がついた上で、あくまで雄藩主導で「神戸開港」の課題を議論したかったが
幕府にも理解を示す土佐の山内容堂や、慶喜の強腕は粘り強く公卿たちも説き
「長州復権」「神戸開港」を一緒に行うと言う松平春獄の妥協案で決まり「神戸開港」(重要案件の決定)は
あくまで引き続き幕府主導で行うと言う強い意志を示した。

ここに薩摩・島津久光は政権を西郷・大久保らに委譲し、薩摩は「武力討幕」前提で徳川を
完全排除する路線に定まる。
長州も復権し、五卿の帰絡方針も決定する。
残る土佐は慎太郎が、容堂と対立し自ら江戸に退き、さらに強硬な武力討幕派となっていた
門閥の同志・乾退助を京に呼んで、西郷・小松帯刀らに対面させることで
「薩摩が立てば土佐も同調する密約」を結び、土佐に帰国した退助は討幕に向けての
軍の編制・洋式化を推し進める。

一方、朝廷対策では元来尊攘派の代表格・三条実美と、公武合体派で和宮降嫁を実現させた
実力者・岩倉具視ではまさしく「水と油」の関係だったが、岩倉自身の思想の変化を聞き
討幕の意思を確認した慎太郎は両人(三条の部下でもあったので直に説得できた)を結ばせて
岩倉はここからやっと表舞台に出てくるのである(関連記事→ここここ
この後の活躍(暗躍)はよく知られるところだ。


一方の坂本龍馬ですが
土佐は武市一派の弾圧により、吉田東洋門下生の後藤象二郎はその「開明貿易策」の遺志を引き継ぐ
「開成館事業」(→関連記事。ここここ)を起こし、関連し長崎を拠点とすべく出向いた際に、すでに「社中」を
経営していた坂本龍馬と出会う。
ここで両人は意気投合するわけだが、一般的には議会制度を中心としたいわゆる「新政府綱領八策」は
龍馬の腹案で、後藤の代弁と言う向きが多いが、元々から東洋門下の福岡孝弟と共に欧米の制度
には明るかったようで、後藤自身の書生だった薩摩脱藩士・中井弘(桜州)を英国に密航留学も
させていてブレーンになっていた。
そして貿易論は東洋仕込みであり、土佐の藩論からも徳川を助けることにもなる「大政奉還論」
それを発展させた「公議論」は、大久保一翁・松平春嶽・横井小楠らの影響を受けた龍馬の持論であり
龍馬・後藤・中井・そして海援隊きっての論客・長岡謙吉でまとめられたとする書も最近では見られるようになった。
ただし、龍馬は従来からの薩長藩士らとのつながりから、場合によっての「武力行使」は不可欠とも認識しており
「二の策」として考えていた(「大政奉還」が実現しなかったら、乾退助らと同調することも考えていた)
これが長崎から大量のライフル銃を土佐に送った動きとなってくる。
(こんなことを言う人もいますが その1その2

以上まとめてきましたが、龍馬と慎太郎の接点は世間一般で言われるほど、ほとんどないんです。
しかしながら「朝、鶏の声が聞こえるまで話す」(夜通しで話した)と
慎太郎の日記にあるように、たまに会えば気の会うわかりあった友人であったんです。

しかし二人の考えはまったく別のものであり、そこに至るまでの経緯は違うし
それぞれの思想・道程の違いも注目すべきところです。
だから龍馬が非戦を訴えて「薩摩」「長州」「討幕派公卿」を説得するなど無理だし
例えば西郷が龍馬暗殺の黒幕と言う人が大変多いですが、一個人(龍馬)がすでに数々の経緯を経て
藩論とした大藩に対抗して、その討幕論の再考を促すなどできるはずもなく、まったく脅威ではないんです。
「龍馬が生きていれば、鳥羽伏見の戦いもなかった」と言う論者もいますが
具体的にどうしたら、龍馬が止められたのか文章として書いた人はいませんよね!
ただし「大政奉還」を慶喜が蹴ることで、討幕の名分を得ることで賛同したのがあてが外れたこと。
大政奉還前提の「薩土盟約」は用兵準備も謳っていたが、まったく兵を出さず(山内容堂の意向もあったが)
その気配を見せない後藤象二郎。
後藤と、またもしてやられた格好の慶喜憎しの文言は西郷の書簡に見られることです。

(それで各論に対して。以前の「龍馬暗殺犯は誰だ」に対するコメントのコピーです)
後藤周辺が暗殺の黒幕だったら、本命は中岡慎太郎の方がしっくりくる。
なぜなら、慎太郎の死で一旦は土佐の武力討幕派の勢いは止んでいる・・・
鳥羽伏見のぎりぎりのところ(100人規模)での板垣派の蜂起で、辛うじて「薩長土」の形になった。
一方、大政奉還推進派の龍馬が死んで、鹿児島で形の上では同論だった小松帯刀が足痛で出国
できなかった時(容堂・春嶽らと議会開設の公議論を目指していた) の後藤の狼狽ぶり(薩摩とのパイプを
失った)からみても、後藤が龍馬を狙ったのはありえない。

新撰組であれば狙ってたのは龍馬より、土佐討幕派の巨頭だった慎太郎の方。
事実、陸援隊にスパイを入れていた。
政治に目覚めていた近藤にとって、永井尚志とも翻意な龍馬はどちらかと言うと同調者。

薩摩はこの時点では、龍馬は考え方からしても、もう必要にはしておらず
土佐に対しては慎太郎の指示による、乾退助を中心とする「土佐軍の上洛出兵」を求めていた。
結果論で龍馬を消す理由があったとされるが、それ以上に慎太郎の死の方が痛かったはず。

龍馬がほぼ即死し、瀕死の重傷だった慎太郎を見舞った土佐・谷干城、田中顕助は「武力討幕派」で
慎太郎の同志。薩摩・吉井幸輔は龍馬の新婚旅行にも一部同行したぐらいの仲だが「薩長同盟」の際は
龍馬よりも、むしろ先んじた行動を長州 にあって起こしていた慎太郎に、薩摩藩士では最も早く接触していた人物。
よく語られる「龍馬暗殺の瞬間」は自身の死を予感しながらも「ほんとうのこと」
を隠し、なおも討幕に有利に動くように作られた話だとしたら・・・
こうして「新撰組犯行で龍馬本命説」(明治前半の定説だった)とされ
この事件さえも岩倉(慎太郎に近い人物だが)・大久保らは討幕機運を上げる ために利用した。

明治になって見廻組犯行がささやかれ、今井信郎なる人物が裁判を受ける。
形ばかりで軽い刑となった。しかし判決文は龍馬暗殺のみとされ、慎太郎の名 は一言も出てこない。
谷は彼の終生、この暗殺を調べつづけたと伝わるが今井に対しては「自分の功名を売る為」と酷評している。
田中は日露戦争の気運の中、突如「夢枕に現れた龍馬」として世間に公表されるきっかけを作る。
忘れられかけていた龍馬は再び、脚光を浴びる
(霊山の龍馬墓所横の顕彰碑は、このことがきっかけで建てられた)

しかし、谷・田中とも慎太郎よりも、縁のあまりない龍馬を語り顕彰しているのだ。
まるで避けているかのように。。。
そして「龍馬暗殺」と語り継がれ、今日まで謎として残るのだ・・・

しかしあくまで「主義主張の違う龍馬・慎太郎が一緒に同じ場所で殺された」
この事実が一番の謎を解く鍵のように思われる。

by enokama | 2010-07-31 23:45 | 中岡慎太郎関連 | Trackback | Comments(0)

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