大阪城の展示2010と講演「坂本龍馬と大坂」(住吉陣屋)
参加人数が少なくって、取り消しになってしまいました。
朱印があるので二人添乗のサブだし、スーツ着なくていいし
今どきまずないチップももらえるし、調子悪い時に直前の峠道で酔ってしまう以外は
おいしい事ずくめなんですが・・・
お客さんも四国八十八ヶ所を満願した後の高野山へのお礼参りなので(弘法大師・空海ですね!)
話もするのも面白いんですがね。。。残念
土曜日の夜に、前から行きたかった大阪龍馬会の長谷さんの講演に行ってきました。
長谷さんの「大阪学」は、ほんとに聞き応えがあるんですよね!
18時からとなるので、その前に大阪城に行ってきました。
お城のドン(明治初期に時を刻んだ)
友好関係・・・知らなかった
今日、なぜ行ったかと言うと「幕末志士の書簡」の展示があったので(→詳細)
大坂絡みでは、露船摂海(大坂湾)侵入後に計画された、天保山沖の台場設置の設計図(未完に終わった)
鳥羽伏見の戦いで形勢不利を見た徳川慶喜が天保山沖で東帰の錦絵。
水戸絡みで、大迫力で大文字の藤田東湖の楠木正成を称える書(勤王を意味するのかな?)
徳川斉昭の幕政批判風刺の詩。
天誅組の吉村虎太郎が、中山忠光とともに奮戦するの絵も迫力ありました!
あと田中光顕のサイン付きで、石川迂山(中岡慎太郎)の詩が入った肖像画。
顔は正直、江守徹みたいだったけど(苦笑)慎太郎が中心に書いてあって、龍馬がその下だった配置が
珍しいなと思いました!
講演。実は今日の内容で来週、ウォークをされると言うことなんですが(→詳細、こことここ)
僕は四国に行って、残念ながら参加できないので、今日の話は大変参考になりました!
・土佐藩住吉陣屋跡
こちらは「龍馬伝」にも出てきました。
武市半平太が藩主・山内豊範を擁して、参勤途中に京都に入り攘夷勅使を実現し
尊攘派公卿の三条・姉小路ともに江戸に入る流れがありましたが
その上洛途中に住吉陣屋に入っていて、多くの者がはしかにかかったシーンがありました。
(実は屈強に見える岡田以蔵もかかった)
実際は西長堀の藩邸だろうとのことでしたが、多くの死者が出て夕陽丘あたりに土佐藩士の墓があるそうです。
住吉陣屋は露船の摂海侵入事件(京都に近い地のことで衝撃的な事件だった)を契機に
幕府は大坂湾沿岸の警備強化を図り、各藩にも割り当てました。
代表的なのが兵庫(阪神間の海岸線)の長州藩で、この経験を基に鳥羽伏見の戦いへとつながる慶応三年十二月の率兵上洛にも生かしました。
土佐藩は大坂南部から大和川あたりの担当となり、時の参政・吉田東洋が中心となって(御仕置役・吉田元吉東洋、御普請奉行・後藤良輔象二郎)
文久元年(1861)に旧紀州街道に沿った(現在の住吉区東粉浜二丁目)土地を幕府から交付され(現在の東粉浜小学校・東粉浜幼稚園の用地が含まれる)南北360メートル・東西140メートルの広大な陣屋を完成させました。
紀州街道沿いに門が作られ、操連所・厩舎・火薬庫も備えた300名常駐の施設ですから、大変な経費がかかったでしょう・・・
財政危機のおり、保守派から庶民に到るまで非難がおきたといい、東洋暗殺の遠因にもなっています。
生活に直結しない施策での海防の重要性の認識は、一般市民までの理解はまだ得られてなかったのです。
この陣屋は慶応二年(1866)に開港通商が広まって、諸藩もその海外貿易に乗り出す時勢でもあって必要性が薄れて縮小され
のちの(白川の)発掘調査では「安芸」で焼かれた紋のある瓦(住吉陣屋から移された)も見つかっています。。。
・専稱寺(勝海舟寓居跡)
最近、脚光を浴びている「勝塾・大坂」
場所は勝海舟の日記の表記があいまいで、確定されてなかったそうですが
近藤長次郎の遺児・百太郎の記録などにより
北鍋屋町(現在の中央区淡路町)にあったことがわかったそうで、先日の「龍馬伝」で紹介されて
いたのは記憶に新しい所です。
この確認は大阪市立中央図書館(西長堀)に所蔵されている「水帳」と言われる幕末の古地図で
一つ一つ確認されたそうです。
また、僕も機会があれば見てみたいものです・・・
もちろん、有名な勝と西郷の会談もこちらで行われました!
近藤長次郎の妻・徳の実家、大和屋は今の中央区瓦町(駅で言えば、淀屋橋と本町の間)あたりで
この実家において、勝塾塾頭の佐藤与之助(政養)の仲人によって祝言をあげています。
ちなみに長次郎が長崎にいた時も妻子は大坂にいて、いつかは大坂に戻るつもりだったのかもしれません。
あと、薩摩と龍馬(社中~海援隊)とのかかわりの地など興味深く聞かせていただきました。
佐藤与之助の話なんかも・・・
まだまだ調べれば、いろいろな新発見も出てくるんですね!
いい話を聞かせていただきました。。。