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エノカマの旅の途中

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講演「なぜ神戸海軍操練所ができたのか」

先日、霊山歴史館の講演を聞いてきました。。。
題名は「なぜ神戸海軍操練所ができたのか」
神戸市立博物館学芸員の高久さんの講演でした。

主に神戸海軍操練所のことよりも、その設置の前段階にあった「摂海防禦計画」の状況についての
説明が主でした。
ちょうど、おとといのNHK「ブラタモリ」でもやってましたが(→こちら
あのペリーの黒船来航の後に、幕府は江戸湾にいくつもの砲台を築いて(お台場の始まりですね)いまして
海上の船から(陸上からでは確認できない)その石垣の一部の遺構を見るって取材をやっていました
(なかなか、この番組はありえない・想像できない映像を流してくれるので面白い)

摂海(大坂湾)でも嘉永七年(1854年)に、ロシア使節のプチャーチンが乗り込んだティアナ号が侵入し
当時、朝廷の意向が影響力を持つようになった時期で、京都が政治の中心となりつつあるころで
幕府はこちらでも防禦に乗り出します。
従来の譜代藩、尼崎・岸和田に加え、長州・鳥取と言った大藩も加わり
経路となる明石海峡には舞子砲台、紀淡海峡には紀州・阿波藩(当時、淡路は阿波領だった)が砲台を設置。
大坂にも天保山に砲台が設置され、天保年間に川を浚渫した土砂でできた人工の山で、その景色と
桜などの植樹で市民の憩いの場となっていた「天保山」も消滅してしまいました。

そして大砲を鋳造するための製鉄所を神戸に、海軍操練所も軍備拡充のために計画されます。
また、異国への恐怖からの不安を取り除くために、形だけでも先に作ると言うことで、土塁で作った
簡易な台場も兵庫・西宮に築かれました・・・
それらの計画の中心となった技術者は、勝海舟の弟子で片腕ともなった佐藤与之助。
江戸からは老中クラスの実力者、小笠原長行・松平信敬・板倉勝静と幕末史でおなじみな人物が
次々と送られてきます。
このあたりの経緯をかなり話されていたんですが、正直専門すぎて難しかったかな。。。
一通り、本を読んでおきたいところです!

こういった経緯でできた「神戸海軍操練所」ですが、そこに人材を送り込んだ薩摩・福井の藩士や
坂本龍馬らの脱藩者を含む勝門下生たちが、のちに薩摩藩の庇護を受け長崎・亀山の「社中」となり
薩長の架け橋となったり、幕軍と海戦したり、結果的に「倒幕・明治維新」につながって行くんですから
わからないもんです。。。
しかしながら幕府も危機感も早くから持っていたし、海軍のメンバーは当然「完全実力主義」になりますので
(しっかりと航海できてなんぼなので)侮れない勢力となっていたんですね!

(追記、こちらの記事もごらんください→佐藤政養について
by enokama | 2009-12-12 23:35 | 神戸・阪神間 | Comments(0)