11月15日。京都・霊山で中岡慎太郎ファン集結 その2
天気予報通り、すっきりと晴れた日となりました!
紅葉はまだまだって感じで、いつも思うんですが年々遅くなっている気がします。。。
去年の人出もあったので、朝早めの10時半にファンの方と合流。
この時間だと恒例の北川産の軍鶏を使った「軍鶏鍋」は、まだ仕込み中でした・・・
そして、この日だけの(龍馬・慎太郎)名刺で入って、両名の墓参をじっくりすませてきました。
結局は「よさこい」の学生さんの行列整理もあったようで、去年みたいな長大な行列は午後からも
見られませんでした!
北川村の本隊は1時ごろ到着とお聞きしてましたんで、合流するまで霊山歴史館を見学。
岩倉公関連の資料が多数出されていて、香川敬三「草莽姓名録」は五卿随従士中心で土方久元・
石川誠之助・・・と言った並びが新鮮でした。
岩倉なので徳川討幕に関する密勅などは生々しいものです。
後、印象に残ったのが天誅組で散った那須信吾の血染めの旗や、遺品の皮袋等はよく残されて
いたなと思いました。
そして、一番衝撃的だったのが土佐の上士で勤王党に走り「五十人組」の代表になりながらも
問題児だった宮川助五郎が吉原遊女と、はべらかしている写真。
まあ、当時の武士からしたら、こんなだらしない場面をよく撮らせ残させたと思うんですが
そんな人間だったんでしょう(苦笑)
慎太郎の有名な笑顔写真も気にしてしまって、自ら女性は消してしまったことを感じると
人間性がよく出てますね。。。
のち戊辰戦争に米沢藩へ軍監(だったと思う)で赴任した宮川は、あの悪名高い長岡の岩村精一郎(高俊)
よりも、たちが悪く高慢だったと記録に残っているそうです・・・
一説には近江屋の龍馬と慎太郎の会談の理由が、この宮川の処置だったといいますが
わざわざ両巨頭が相談するほどの人物だったのだろうか。龍馬とは接点がないように思うし慎太郎の独断
で陸援隊に引き取ったらいいだけじゃないかと(実際、陸援隊の「高野山屯集」に参加している)
そんな宮川ですが遊びも祟ったのか?戊辰戦争の後、ほどなくして早逝してしまいます・・・
1時前に村の皆さんで墓参
この後は北川村のテントの前にいたら、中岡慎太郎のことをよく書いてるブロガーさんが
集結していました(笑)そして顕彰会に揃って入会しました!
また顕彰会のHPができたら、それぞれリンクして連携もできて行ければいいですね。
私も顕彰会の窓口の一つを任されることとなったんで、また問い合わせください。。。
4時半に墓前祭が終わって、霊山で「龍馬伝」関連の地域(高知・長崎・鹿児島・山口)の方が
合同でキャンペーンをされていたんですが、境内での「よさこい」と一緒に京都駅に移動すると言うことで
我々も駅に行こうとしたんですが・・・今の時期の京都ですんで、この時間の南行きがマヒしてまして
(五条坂や四条は動いてなかったみたい。霊山からのバス移動が1時間以上かかったとか・・・)
なんとか裏道でタクシーを拾って、抜け道を行ってもらい30分ほどで行きました!
その京都駅前で
今日(16日)の行程は改めて・・・
お世話になった皆さんのブログには、また訪問させていただきます!