下関を歩く~攘夷攘夷攘夷!
上洛した政治総裁職・松平春嶽、将軍後見職・徳川慶喜だったが当時、朝廷は長州勢の息がかかった尊攘派勢力の絶頂の頃であった。
彼らは鷹司関白や中川宮も動かし、朝廷からは逆に攘夷期限の具体的な実行を迫られ五月十日とし開国を拒絶。
幕府は各藩に対しても「海防を固め外夷が来襲すれば」攻撃せよとの命を発した。
その十日。関門海峡にて長州藩の激派は、攘夷の実行として外国船に容赦ない砲撃を浴びせかける。
厳密に言えば来襲してきたことではなく一方的な攻撃であり、上記の命には背いたとも言える。
ただし一方、長州勢の工作で「航行する外国船は見かけ次第、打ち払え」との勅命も出されていた。
光明寺(下関市細江町。第二次大戦の空襲を逃れ、当時の建物が現存)
諸侯も公卿も頼むに足らず、皇国を実現するためには藩も捨てて、いわつる「草莽志士の決起」を各地に伝令。平野国臣・吉村虎太郎らもそれに従った。。。
一方の雄・高杉晋作は「藩割拠論」とし逆に藩や浪士などの連携は拒否する姿勢を取っていた。
また過激派公卿で知られ長州へ下り、白石正一郎邸に身を寄せていた中山忠光が「党首」に祭り上げられた。
中山はこの年八月の「天誅組の変」にも加わり、瓦解後長州に戻るが「恭順」となった体制の中で処遇に悩んだ藩の命令により暗殺される運命となる。
亀山砲台跡
5月11日未明、攘夷の第一弾がここから打ち込まれた!
またこの砲台の攻撃の最中でも、奇跡的に一人の死傷者も出さず「矢よけ八幡宮」とも呼ばれた。
九州への玄関口でもあった。
5月は計3回、米・蘭・仏各国の艦船に砲撃を加え、それに対し6月には米艦・仏艦の報復的来襲もあり
軍艦を失ったりもしたが、その後も各国相手に交戦状態となった。
そして翌元治元年(1864)8月、四カ国は「禁門の変」の傷癒えぬ長州藩相手に、とうとう下関砲撃を断行する。
このころ、久坂・入江らはもうこの世にはいない・・・
壇ノ浦砲台跡
この時の主力が壇ノ浦と前田砲台。
前田砲台跡
こちらもかつての藩主の別荘(前田茶屋)跡が砲台となった。
平和な風光明媚さよりも、戦時下の様相を感じる・・・
八月八日、各国の攻撃に屈した長州は講和に応じる。
長州の代表は宍戸刑馬と名乗った高杉晋作。そこに「攘夷実行」の報を留学先の英国で聞き
急ぎ帰国した井上聞多と伊藤俊輔が通訳も兼ねて対応した。
講和条件は「海峡通航の安全確保」と「300ドルの賠償金」「彦島の租借」の三点で
賠償金については「朝命による」(幕府)とし、幕府から支払われた(ただし、賠償の替わりに「下関の開港」
も示されたが、開港して増えるであろう長州の利益と比較した上で、賠償金を選んだともされる)
「彦島の租借」は伊藤の回顧談で「断固拒否」とされたが、具体的な経緯は伝わっていない。
薩摩も英国との戦いで変わったが、長州もこの戦いで英国と交わり変わるきっかけとなる。
中岡慎太郎は、久坂の遺志を汲み「時勢論」でこれを戦争の功と論じている。