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エノカマの旅の途中

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長府を訪ねる~長府藩士 その3

薩摩名義で購入し亀山の社中の仲立によって、やがて長州に引き渡されることとなる「ユニオン号」は
イギリス製300トンの木造蒸気船。
この取引の中心となった近藤長次郎(上杉栄次郎)は薩長の毛利公・敬親に拝謁
島津公・久光には通商・攘夷論等、幅広い思い切った意見を出し、その上書も残されている。

「ユニオン号」は当面○に十の薩摩の旗章を付け、乗組員は菅野覚兵衛・石田英吉ら社中のメンバーで
平時は社中の通商航海に従事するが、有事の際は直ちに薩長両藩に組して武装し軍艦として運用する。
基本、資金は長州から出されその指示に従うが、運用に空きができた時は社中での運用(商売も)や
薩摩の用向きにも使うことができる。
薩摩船名での「桜島丸条約」と言われるもので近藤、長州の井上聞多・伊藤俊輔と言った面々での密約
だったが、長崎では早くから長州が一枚かんでいる噂は立っていたと言う。
長州名は「乙丑丸」艦長は長州海軍局の中島四郎と言う人物が勤めることとなっていた。 
ここに変則ながらも念願だった社中で運用できる船の獲得となった。
ただこのややこしい受け渡し・契約は秘密裏での工作でのことの産物でもあるだろうが、のちには正式な
長州完全移管・社中での運用権の問題も発生し、ほぼ交渉を一手に握っていた近藤の悲劇的な死は
その事も一因であったとされる。

その後運用権を正式に長州に渡し、再び船を無くすこととなった社中は慶応2年3月、薩摩の援助を得て
帆船・ワイルウェフを購入する。
そして試験航行を終え、5月いよいよ下関からの糧米を長崎経由で鹿児島に送る目的で本格航海に出るが
五島列島沖にて遭難してしまう不運に見舞われる。

ようやく手に入れた自由に使える船を失い、池内蔵太ら12名の優秀な乗組員が死んでしまった・・・
一方6月、乙丑丸は条約にもあった軍艦としての運用として、あの高杉晋作の活躍でも知られた
四境戦争の開門海峡での戦いに加わる。
ここで見られた社中乗組員の操船技術の高さは語り草になったと言う。
しかし、この戦いを最後に乙丑丸は彼らの手を離れた。



船を無くした社中はまたまた窮することとなり、そのメンバー・水夫らを狙った長崎奉行所の買収の動きも
出て龍馬は解散も覚悟したほどだった・・・
そして龍馬は打開策として長崎に続いての拠点として下関に目をつけ、すっかり翻意となった長府藩士・
三吉慎蔵と印藤聿(のぶる・肇とする書籍等は間違い)の協力も見られ手紙のやり取りも見られる。
龍馬と下関の関わりは脱藩直後の文久2年4月に、奇兵隊などの勤王志士に援助も惜しまなかった
白石正一郎と会った記録がある。
長府藩士では印藤や大庭伝七(白石正一郎の弟)とは早くからの知り合いだったと言う。
印藤は18歳で藩の砲隊司令となり、報国隊軍監として四境戦争の小倉戦線で活躍
維新後、豊永長吉と改め赤間関米商会所(頭取)士族就産養社、門司築港会社、起業銀行など数多くの
事業に携わり実業界で活躍、貴族員議員にもなった。
また13代長府藩主・元周にも龍馬はかわいがられたと言う。

功山寺の豊永墓所。
大内義長の墓所のそばにある大きなお墓です
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山県の句碑
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覚苑寺(三代・六代・十三代の藩主墓所)
にある乃木大将の像
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そして慶応2年12月になって次の展開として、薩摩と長州の間(五代才助と広沢真臣が中心だった)に
下関にて「馬関商社」の構想が起こり、龍馬らも加わる予定さった。
ただこの構想では、海峡を通過する船舶をことごとく止める「改め」の機能を持たせた利潤追求の考え
を持ち他藩・諸外国との軋轢も予想され、馬関では完全に自由な通商をできるように求める
長州(萩)藩主サイドからストップがかかり取り止めとなったと言う。

しかし、その後は龍馬自身も下関に滞在することが多くなり
妻のおりょうも呼び寄せることとなる。
Commented at 2009-08-30 20:17 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by enokama at 2009-09-03 02:51
>鍵コメさん
会長のお墨付きだったら確実ですね!
ほんと楽しみです。
by enokama | 2009-08-29 23:35 | 長州藩 | Comments(2)