長府を訪ねる~長府藩士 その2(三吉慎蔵)
聞くと幕吏が入っていて、また五卿の召還を蒸し返していると言うのだ。
「五卿動座」の中心的な行動を取った筑前福岡藩も、俗論派が勤王党の逮捕に踏み切っている。
(のちほとんどが斬刑される)
そこで顕助は長州に取って返し報告、慎太郎は西郷ら薩摩勢に協力を願うべく急遽、桂小五郎
(高杉晋作かも?)に旅費を借りて単身上洛した。実にこの年4回目のことである。
この件に関しては桂あて8月11日に「谷君(高杉の変名)江相願候路用拝借仕難有奉存候」との記が残っている。
事実かいあって、翌年(慶応2年)3月の幕府側の召還にむけた実力行使には黒田嘉右衛門、大山格之助
らが威嚇してこれを阻止している。
翌年1月、京都の薩長同盟締結の場には腹心の顕助を送って、慎太郎は大宰府の五卿付の任務に
ついている。
そして2月には山口で締結の様子と龍馬の寺田屋での遭難の報を聞き、上洛をしている。
ここで龍馬の見舞いと、おりょうとの結婚の立会い(西郷隆盛説あり)をしたとされる。
3月5日には薩摩の蒸気船・三邦丸で下関に戻ってきたが、この船には薩摩の西郷・小松帯刀・吉井幸輔
龍馬と結婚したばかりのおりょう(薩摩への新婚旅行)もいて、み~んな一緒だった。
実に楽しい船中だったでしょうね(笑)
そして龍馬に付いて上洛し締結を見届け、寺田屋では龍馬と共に戦った長府藩士・三吉慎蔵と一緒に
下船することとなる。
実は今回、お世話になった長府博物館には三吉家ゆかりの寄贈品もあって、三吉家にも多数の龍馬
から慎蔵への手紙が残されているんですが、慎太郎からの手紙も残されているんです。
(時期的にはこの3~5月の物が3通)
龍馬からの手紙はこの年の7月から翌年にかけて硬軟織り交ぜた物が多数あり
「馬関商社構想」や伊藤助太夫邸「自然堂」での生活もあって、交流も深くなり慎蔵に対する信頼や
友情も感じるものです。
今日は数は少ないですが、慎太郎の手紙が中々面白いんで紹介します!
(長府博物館「三吉慎蔵と坂本龍馬」図録より)
3月14日の三吉慎蔵あて
「国家天下の大変革、真に失うべからずの大機会と愚考仕り候。
今度貴君の上国行にて、薩藩の情態もお分かりに相成り候なれば、彼藩にもせよ短は責め長は取り
互いに相補えば流弊の固病を除き、恐れながら明君非常の忠志を遂げられ候も薩との御信義にも」
これあるべく・・・
長府藩もこの情勢見て、引き続き薩長との提携を進めるべきだとの書簡。
4月16日には長府に入って三吉慎蔵と時勢を論じ、大いに歓談痛飲した。
それを受けての翌日4月17日の慎蔵あて
「昨日者推参、御丁寧御馳走ゆるゆる御高話拝承難有奉存候、久振拝顔、満酌不辞大酔仕、
今朝二相成茫然黙坐、昨夜之次第ヲ考ル二、定めて七九(しちく)どき議論など出、所謂山いもの(田舎者)
汚名不免時と慙愧之奉存候、今朝ハ取急之儀二付出立仕候、早朝之儀二付御無音二打過申候、
不外成失敬仕候、御高キ是祈候、頓首再拝」
これを見ても慎蔵が話しやすく、聞き上手で理解もあったことがわかります。
やたら恐縮した文面で「慙愧」の文字が強調されたのも、慎太郎の性格・気持のよく出た手紙です(笑)
5月3日の書簡では西方への出立の挨拶とともに、大宰府での黒田嘉右衛門らの幕吏の追い出しの
模様を報告し最後に
「長府目代所にアメリカ皮ワラヅ預ヶ置候間 御試之為御用・・・」
と洋靴の試用を進めている。
なにもブーツは龍馬だけではないってことです!
この頃の慎太郎の行動力を見れば、わかるような気がするし、良い物は外国の物でも取り入れる
当時はまだ見られた排他的な攘夷論者とは一線を画していることがわかります。
この三吉慎蔵の墓所も功山寺にあります。
功山寺国宝・仏殿の裏手に広がる墓所。
何回も来てるんですが、これだけ広い墓所があるとは知りませんでした。
長府毛利家の菩提寺としてはここ功山寺と、やや下がった所にある笑山寺。
そして一時期、仮の藩居館ともなった長府東北部の山手にある覚苑寺。
歴代の藩主ごとに墓所がこの3寺に分かれています。
三吉慎蔵の墓
歴代藩主の墓所の上手にあります。
向側に子息・米熊の墓
彼も偉いさんになりました・・・
・・・・次は龍馬のことをようやく書きます(笑)