人気ブログランキング | 話題のタグを見る

エノカマの旅の途中

enokama.exblog.jp

旅と歴史と競馬のお話をします

ブログトップ

長府を訪ねる~長府藩士

慶応元年閏5月29日、西郷・桂の巨頭会談の流れたあと
「良馬(龍馬)・誠之助(石川清之助)上京之節、蒸気船買求之儀談判に及び候・・・」
(中略 蒸気船買い入れにつき名を借り候・・)桂小五郎の手紙に残されている
薩摩名義(名を借り候・・)での銃器購入を図り、来るべき幕府による長州再征に備えるべく方針を確認した
中岡慎太郎は坂本龍馬と共に三たび上洛を果たしている。
概ねの龍馬の伝記では龍馬の構想を慎太郎が助けたとあるが、二人の行動は基本別々で会って
同じ思想・方向を持って具体的に一緒に行動したのは唯一この時だけだったとも言える。
だから暗殺が一緒だったと言うのが、回り回った運命とも言うべきものなのである。
京都では文面にあるとおり、薩摩との折衝に動いたのだと思われる。

一方長州内訌戦が終わり、政権を取り戻した(4月)高杉晋作は洋行帰りでもある伊藤俊輔の手配で
長崎に赴き、英国商人グラバーと対談している。むろん、両人とも単純な攘夷論は捨て去っている。
ここで高杉は「下関開港」を決意し帰藩後、藩庁に説得にかかる。
しかしもともと長州は「攘夷の大本山」でもあり、開港によって領地を召し上げられる方針が示されると
下関を有する長府・清末の支藩も当然のごとく反発する。
そして、暗殺団も結成されるに至り、高杉・伊藤・井上聞多の開港派は逃亡を余儀なくされる。
井上聞多は九州・別府にて博徒の子分となり、伊藤は対馬から朝鮮へ走ろうとした。
高杉の愛人おうのを伴っての讃岐への逃亡劇はよく知られた話である。
この時の様子をこう中岡慎太郎は記している(八月十一日 木戸孝允宛て書簡)
「長清御末え有志者将に襲 高・伊・井え三兄と計ラントスルノ色有り 其論え発スル所ハ馬関開港え
一義より起れり 故に僕憂えて井・伊を語ル 両兄僕二答ル至明白公大 更二一点ノ疑う可ナシ」  
7月16日、京都を発ち長州入りした慎太郎は大宰府の五卿への報告を田中顕助に託し
「下関開港問題」に悩む桂小五郎と山口で面会している。

三人はすでに藩に戻り、聞多・俊輔は長崎へ銃器・軍艦の調達と言う重要な使命を持って
出発している。
慎太郎はこんな状況の中で長府・清末藩士へは本藩支藩の結束や海軍の重要性を持っての
説得もしている。
その長府藩きっての剣客として知られた泉十郎(旧名・野々村勘九郎)は高杉らの暗殺
を図る中心人物だったとされる。暗殺に走るころ、ちょうど但馬から帰国した桂小五郎は同門の先輩
とあって諭され、思いとどまることとなる。
ただ、この問題には桂も頭を悩ませ一旦は山口から萩への隠退も考えたほどだった。
泉は五卿の長府・功山寺入りには応接使となり、正義派の中心人物として報国隊の都督となるが
やはり長府にも俗論派がいて、その4月にあった保守派要人の暗殺の嫌疑をかけられ
一身に責任を受けてこの年の11月に切腹をしている。
かつて奈良・五條で「天誅組の乱」の首領として担がれ、瓦解後に長府領に身を寄せていた
公卿・中山忠光の暗殺(前年、元治元年11月)にも関与したとも言われるが、本来尊攘派である彼らが
手を下せる状況にあったのだろうか?(また、時間あったら調べてみたいです)
複雑な各派乱れる情勢の中での死であった。墓所は功山寺にある。

by enokama | 2009-08-21 23:16 | 長州藩 | Comments(0)