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エノカマの旅の途中

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長府を訪ねる~そして結実

閏5月15日、薩摩に帰国していた西郷は長州再征に対する反対・出兵拒否の方針で藩論を
固めた後、再び上洛する。
この途次に下関に立ち寄り桂小五郎と対談し「薩長和解」の具体的な動きに移すのが
中岡慎太郎と土方楠左衛門の計画だったが、京の大久保一蔵から「幕府の長州再征の動きが急
なので、一刻も早く上洛してほしい」との手紙が着くと(事実16日 には将軍・家茂が征長に向け
江戸を進発し大坂城に出発している)
京へ急ぎ上ることを決める。このことは元来薩長融和に乗り気でなかった大久保への対応もあったと言う。
慎太郎の説得は叶わず、大分・佐賀関で下船。漁船を借りて下関へと単身、向かったのである。

この西郷の行動に桂が激怒したと言うのはよく知られた話である。
しかし、その真意は長州を救うためでもあり、慎太郎と龍馬はそのあたりの事情も話して
何とかなだめた。
まだ薩摩を敵視する勢力も多い中で、桂も偏狭で怒ってるのではなくその態度も必要だったのかもしれない。
ここから引き続きの「融和策」が出された。
長州の政権は再び、正義派が握り再び「武備恭順」の方針となったが再度の征長の動きもあり
今度ばかりは幕府と一戦を覚悟せねばならない。
しかし、対抗するための軍備を増強するには「朝敵」ともされた今ではとても表立った行動はできない。
ここで、このころ薩摩の援助もあって作られた龍馬の長崎・亀山の「社中」の出番となる。
この年7月井上聞多・伊藤俊輔が長崎に向い、近藤長次郎が仲立となって商人・グラバーから
軍艦・ユニオン号(11月、馬関廻航)と銃器を「薩摩藩名義」で購入に成功する(→こちらの記事も)
一方その見返りとして長州から薩摩への兵糧米の援助も行われ、龍馬自身も宮市(現防府市)
と言ったあたりでその交渉にあたっている。

こう言った諸隊への説得から始まり、実利を伴う薩長の経済的なつながりができ「薩長提携」の気運が
名実共に高まった。
もちろん土佐浪士の立場である慎太郎・龍馬の役割は大きかった・・・
そしてこの年12月、薩摩からの正式な使者として黒田了介(清隆)が大役を任され、山口にやってきた。
江川塾や大鳥圭介の下で砲術を学んだ人物だが、その人物を見て西郷隆盛に抜擢され、外交デビュー
となった。
この時、着る物に頓着しない黒田はよれよれの袴をはいてきていて、いざ毛利公に謁見するとなると
あまりにもひどい。眉を顰めた桂小五郎(絵が浮かぶよう・・・笑)は羽織を、井上聞多は袴を黒田に貸して
会見に臨んだ逸話が伝えられている・・・
そして黒田、桂改め木戸貫冶、諸隊の品川弥二郎らと慎太郎の側近である田中顕助の一行は最終交渉
すべく、12月28日に京へ向けて出航する。
ユニオン号(長州名・乙丑丸)の一件で交渉がこじれていた龍馬は年が明けて(慶応2年)
長府藩からも重要案件に立ち会うために藩士・三吉慎蔵を付け共に上洛。
そして、1月22日同盟は結実する・・・
Commented by わだん at 2009-08-08 09:41 x
うーんすばらしい。


長府という地はもっと知ってもらいたいとこですよね。
Commented by enokama at 2009-08-11 02:59
>わだんさん
記事遅れてすみません・・・
後2回ぐらい書きます!
by enokama | 2009-08-07 23:25 | 長州藩 | Comments(2)