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エノカマの旅の途中

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所郁太郎に会いに行く~適塾から長州へ

慶応三年(1867年)十一月十五日、京都近江屋で土佐の巨頭、坂本龍馬・中岡慎太郎が襲撃された。
坂本は、ほぼ即死だったが中岡は十七日まで息があって、その場にいた陸援隊士・田中顕助が
「長州の井上聞多は、あれだけ斬られても生きてます。先生も気をお確かに」と励ましたことが伝えられている。
よく仲間うちでは「慎太郎が助かって、聞多が死んだほうがよかった」(すいません、不謹慎ですが・・・)
と言ってしまうのですが
早くから外国に目を向け、豊富な外遊・留学歴を誇った元老・井上馨ではないと解決できなかった
諸外交問題も多く、実業界の発展にも多大な貢献した人物で、数々の汚職にまみれたこともあったが
明治新国家には、不可欠な人物となったと思ってます。

文久三年(1863年)五月「諸外国に対抗する海軍力を強化するには西洋に行って学ぶしかない。
それこそが真の攘夷実現への道である」とたっての願いを出した志道聞多(当時二十八歳)に
当時、彼らに理解の深い藩重役・周布政之助は奔走し、五名の藩士の英国留学が実現した(いわゆる「長州ファイブ」)
ただし、長州は幕府とは敵対している状態で密航と言う形を取らざるを得なかった。
当然、発覚すると死罪で決死の洋行であり、彼らにも困難が待ち受けていた。。。
(志道は万が一を考え、養子先と縁を切り、旧姓の井上に復す)

この五人は後にそれぞれ、新生明治・日本国家の建設に大きく貢献するが
井上と伊藤俊輔(博文)は、現地新聞「タイムス」に載った列強諸国の長州報復攻撃の報を知り
滞在約半年で急遽帰国。
西洋文明に、直に触れた二人は列強との戦いの無謀を説くが、沸騰する諸隊には聞き入れられるものではなく
長州は関門海峡での戦いに入り敗戦(元治元年(1864年)八月)
ただし、この講和で国の方針として行った行為だと賠償金は幕府に払わすことになり
英国への接近のきっかけを作ることとなった。

引き続き、幕軍の第一次征長の動きに対して、長州藩の苦心は一方ならざるものであった。
このため、正義党の周布政之助と家老・清水清太郎は岩国藩に赴き、藩主・吉川経幹に面会を願い
この難局を切りぬけることの尽力を頼んだ。
すでに岩国には「長州救済」を願う筑前(福岡藩)から薩摩藩への働きかけもあって、福岡藩士・喜多岡勇平
と薩摩・高崎五六が入って、できれば交戦なく処置をできるよう説得工作が始まっていた。
経幹は芸州藩にも協調を願い、その家臣・浅野式部に会って交渉の端緒を開いた。
一方、藩内俗論党(保守派)は勢力を得て恭順謝罪の方針を取り、この方針に賛成した撰鋒隊は
亀山の平蓮寺と讃井の円龍寺(共に山口市内)に駐屯して俗論党を支援していた。

九月二十五日。家老以下政府員は出頭して毛利公・敬親父子の居館で御前会議を開いた。
俗論党を始め、今の時勢を見た多くの政治員は「御家のため恭順を表すより外に途なし」
(絶対恭順)と主張する。
対して井上聞多は数少ない勢力となった「正義党」の一員として武備恭順を主張し
その劣勢の中で元々、藩主の覚えも目出たい聞多はその尊王論の貫徹を訴え
一旦はその意見を入れ、敬親は武備恭順の藩是をとることに確定した。
そして翌日に末家およびその家老を召して再度、国論を一致とすべく、薄暮に退散した。
独り井上は、なお敬親に召し留められて明日の手順等について諮問せられ、夜に入って湯田の自宅に帰る途中
袖解橋付近で、保守派寄りの撰鋒隊・児玉七十郎ら数人に襲撃されて、文字通り瀕死の重傷を負った。
この件は井上が自身に近い正義派の隊を使って、脅威を払うべく撰鋒隊の屯所を襲う計画も持っていたが
事前に情報が洩れてしまったため、前記の藩是の確定前に襲撃されてしまったものである。

また二十六日の明け方に周布政之助も自刃して果てている。
そして案件は棚上げとなって「絶対恭順」となり俗論派が政権を握ることとなった。
そして、山口城の破却・三家老の切腹・四参謀の斬首と「降伏謝罪」
三条実美ら「五卿」の第三国への移転を条件に、戦わずして第一次征長は終了した。
ただし、征長軍参謀の西郷隆盛は「長州救済」に動いた岩国、芸州、福岡藩らの行動もあり
かなり寛大に処分を済ませて、長州の再度の復活へと導いていったのである。

この井上の襲撃時に呼ばれたのが医師でもあった美濃出身・所郁太郎で、すでに二人の医師が
駆けつけていたが手の施しようのない様子だった。
井上はその痛さに喚き叫び兄・五郎三郎に「介錯を」と迫ったが、母親は助命を願っていた。
それを見た郁太郎は「ぜひ助けたい」と応急手術に臨んだ。
当然手術道具などない緊急事態で、彼は畳針を用い焼酎で消毒、五十数針を縫う処置を行い
この時点で井上が死んでいたなら「早くから外国を見据えていた先覚者で、この死はのちの日本に
とっても大きな損失だった」と評されていたかもしれない。
また、郁太郎の外科手術の腕の高さも伺いしれる。

ちなみに司馬遼太郎「美濃浪人」では、すでに駆けつけていた医師が適塾で同窓であった友人の
長野昌英となっているが(彼の引きで長州藩に出仕したとある)適塾姓名録にはなく長州藩医で
長崎で松本良順やポンぺに学び、コレラ防疫の功で藩から褒賞した優秀な実在した人物を「適塾生」と
して仕立てたフィクションである。
(「適塾 第三十七号 適塾門下生に関する調査報告(24)」芝哲夫氏の記事より)
ただし長野昌英との手紙のやりとりは残ってますので、親交があったのは確かです。

所郁太郎生誕地(中山道に面している)
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(以下は赤坂の顕彰碑の碑文より)
天保九年(1838年)中山道赤坂宿・醸造家矢橋亦一の四男として誕生。
十一歳のとき西方村(現大野町)医師・所伊織の養子となり厳しく育てられた郁太郎は、初め横山三川に
漢学を習い、次に美濃加納(現岐阜市)藩医・青木養軒に医学、三宅樅台に文学・歴史を学ぶ。
十八歳で京都に出て安藤桂州塾で蘭学を、また二十一歳で越前大野藩校・洋学館で洋学を修め
塾頭・伊藤慎蔵(長州出身で適塾の塾頭にもなった)に勧められ万延元年(1860)二十三歳で
大阪の適塾(緒方洪庵)に入門。福沢諭吉、大村益次郎ら多くの交友を得て国事を論じた。
(福沢は咸臨丸で米国に渡った年で、大村はすでに宇和島藩&幕府に召し抱えられていたので
この入門時点で適塾にはいなかった。おそらく長州とのつながり始めは伊藤慎蔵によるもの)

二十五歳で養家に帰り結婚。再び上洛し町医を開業(近隣に長州藩邸があった)
長州・桂小五郎の推挙をうけ京都・長州藩邸の医院総督(医院と言う呼び方の元祖)となり
高杉晋作ら志士たちと親交を深め、国政に参画。
文久三年(1863年)の政変には、三条実美ら七卿落ちに従い長州に入り「寺社組支配」「米銀方奉行」
「遊撃隊参謀」など要職を歴任 「辛苦 忠を思い身を思わず 医は人の病を医し 大医は国の病を治す」
と幕末騒乱の中を東奔西走し、国のために尽した。


「第一次征長」の完全降伏謝罪を知り、そのころ筑前福岡に亡命していた高杉晋作は長州に取って返し
その年の十二月、長府・功山寺に俗論党政権を倒すべく挙兵する。
当初、わずかに同調したのが各脱藩浪士中心の遊撃隊と、伊藤俊輔率いる力士隊のみだった。
そして、遊撃隊参謀となっていたのが所郁太郎で、大村益次郎・大鳥圭介と言った軍略家も輩出していた
適塾出身で、軍師としての素養も身につけていたのだろう。
回復した井上も後に高杉らに合流している。
以後、転戦を重ね、翌年慶応元年(1865年)三月。正義派は勢いを得て勝利し、政権を奪いかえし
「武備恭順」とし「桂小五郎の帰還」「薩長同盟の締結」「四境戦争」を経て、長州の雄藩割拠から幕府打倒への動きは加速するのだ。

しかし所郁太郎は明治維新を迎えることなく死んでいる。
正義派が再び握った政権の下「第二次征長」に対する体制の整った時期の
三月十二日、吉敷の遊撃隊軍営で戦死ではなく病死している。
病名は腸チフス。コレラやチフス・天然痘など師匠の緒方洪庵も取り組んでいた病気である。
自分で自分が観られたら早く処置も取れていたかも知らないが、皮肉なものである。

適塾出身の秀才で軍人もしくは医業の道。また、長州閥について維新後は高官に登りつめ
名を残していただろう人物は、志半ばにして病に倒れてしまったのだ。
享年二十八歳、墓は山口市東三舞と美濃赤坂・妙法寺にある。

妙法寺
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ちなみに、裏手の墓所に行っても「所郁太郎」の墓との表示はありません。
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ちょうど法事の方々がおられて、教えてもらいました(こちらも矢橋さんでした)
ちなみに旧姓の「矢橋家」の中に一番最初に立てられたと言う墓があり、教えてもらえました・・・

約二時間の徒歩での赤坂の散策でした・・・
続いて大垣市街地に行きます!

所郁太郎関連記事(時代順)
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by enokama | 2009-05-14 02:22 | 緒方洪庵と適塾 | Comments(0)