霊明神社のお話
2010年 02月 10日
この日は大阪龍馬会の講演を聞きに行ってきました!
題目が「洛東霊明神社と草莽の魂 龍馬・慎太郎・藤吉の神道葬祭の社」で
神主の村上さんのお話。約2時間強でしたが、それでも時間が足らないような
盛りだくさんの話と、僕らからしたら、すごいお宝の遺墨がたくさん霊明神社に残されている話で
ほんとに行ってよかったなと思いました。
幕末に幕府の影響力の低下、外国からの圧力もあって各地で「尊王」の動きが広まりますが
その先端を行く長州藩士が「神式」により祀られる地を、霊明神社にその場所を求めたのが
始まりで、その仲立ちをした伊藤俊輔らの書簡も残されているそうです。
そして文久2年(1862)12月に、在京尊王派志士たちにより「招魂祭」が行われ、のちの靖国神社に先立つ
初めての私祭で、そのメンバーは長州はもちろん、会津3名(秋月悌二郎もいた)二本松3名
そして天誅組の藤本鉄石らと・・・ちょっとありえないメンバーですが、そのころは彼らの思いと言うのは
共通の認識だったのだろうと言えます(この名簿もあるそうです)
そして「禁門の変」もあり、彼ら同士でも対立することとなり、その経緯で「霊山」には薩摩はいないと言う
のが僕らの常識なんですが、もう一つ寺院の勢力が強く神式がなじめなかったと言う面もあったそうです。
後、明治になって「神仏分離」があったり、靖国神社から各地に護国神社ができたりして
(このあたりはちょっと勉強不足でうまく説明できないんですが)
元々「霊明神社」の墓所は「霊山護国神社」に取り込まれるような形で、現在に至っているのです。
今の墓所の中腹右端にフェンスがあり、別のような社がみえますよね。そちらが霊明神社なんです。
その経緯があるので、当時の志士たちの遺墨がたくさんあるのです。
平野國臣の歌の短冊(これはすごい!)やら頼三樹三郎の書や、パークスが京都・花見小路で襲撃された時に
護衛の後藤象二郎・中井弘に斬られた攘夷志士・朱雀操の刃こぼれした刀やら、まだ解読できず
意味がわからない書簡がごろごろあると・・・
今の神主さんが継いでから萩出身で歴史に興味があると言うことで、史料を解析し公開の場も
設けて行きたいと言うことで、こうして講演もされるようになったそうです。
また題目の「龍馬・慎太郎・藤吉」の葬祭の文書もあるんですね。そこには実葬と書かれ
実際に埋葬されているのがわかります。
史料を探ると近江屋・井口家が、今でも代々祀られておられるのは知られていますが
菊屋(鹿野さんと言う姓になったそうです)の名も明治のころはたくさん見られるそうです。
菊屋は峰吉ですね。商売が本屋で中岡慎太郎の寓居ともなっていた場所です(暗殺のころは白川にいる
ことも多かったようですが・・・寓居跡碑が立ってる所です)
実葬については、禁門の変やら池田屋事件でも、遺体の行方ってわからなくなっている事も多いし
墓標だけと言うのも多いようですから300柱あるうち、実葬なのは3分の1ぐらいではないのか
と言うお話でした。
最後に村上さんは「慎太郎もぜひ世の人に知ってもらいたい」とおっしゃっていました。
藤吉もしっかり祀られていますよとも。
また、こう言った神式の墓所の話は高杉晋作と慎太郎の話から始まったかもと・・・
長州の桑山・桜山招魂所もそこからできたんでしょうかね。
この後、今日もアフターで5時間近く話ししてきました(笑)
また話も聞きたいし見に行けたらなと、また次回の機会があればいいですね。。。
どうも、ありがとうございました!
# by enokama | 2010-02-10 01:05 | 歴史全般 | Trackback | Comments(0)
















































